空に真直ぐ伸びる木々 落羽松
誰が植えた?駄原総合運動公園
どうも葉っぱの形などが違う気がします。念のために運動公園を管理する大分市都市計画部公園緑地課に電話で聞いてみました。
すると、メタセコイアではなく「ラクウショウ」(落羽松)との答えでした。「ラクウショウ?」。植物に疎いこのブログの筆者には予想もしない答えでした。
ラクウショウは庭園や公園、川辺など湿気の多い所に植えられているのが多いようです。和名のラクウショウは「落羽松」の意味で、別名「ヌマスギ」とも言うとあります。
ヌマスギは「沼杉」の意味で、この木が沼辺などに好んで生じ、スギに似ていることから名づけられたと書いてあります。
ちなみにウィキペディアには、日本には明治初期に渡来し、関東南部以西に適し、湿気の多い公園、庭園、社寺境内などに植栽されている、とありました。
それほど珍しい木というわけでもないようです。でも誰が、いつ、ここにラクウショウを植えたのでしょうか?それを知るために、駄原総合運動公園の成り立ちについて少し調べてみることにしました。
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この夏、大分と福岡、佐賀、長崎の北部4県を会場にして「全国高等学校総合体育大会(インターハイ)」が開催されるのだそうです。大分ではテニスなど5競技が行われ、駄原総合運動公園がテニスの試合会場として使われるようです。それで高校総体に合わせてテニスコートが一新されることになったということです。
大きなスポーツイベントを誘致し、それに向けて施設を新しくする。駄原総合運動公園もそうして姿を変えていった施設の一つです。
2019ラグビーW杯誘致で装い一新
大分市東部の松岡・横尾丘陵地にある「大分スポーツ公園」がラグビーW杯の試合会場の一つとなり、ニュージーランドVSカナダなど5試合が行われました。
W杯の試合だけでなく、出場国チームのキャンプを誘致することで経済効果を高めようとして行われたのが、駄原球技場の大改装でした。
1966(昭和41)年の大分国体開催に合わせて整備された駄原球技場は、ラグビーW杯に向けて半世紀ぶりに一新されることになりました。
そして、その甲斐あってW杯に出場したウルグアイ、フィジー、フランスがここでキャンプをしたそうです。スタンドには3カ国チームのキャプテンの手形が残されています。
さて、そろそろ話を戻しましょう。今回のテーマは駄原総合運動公園にラクショウ(落羽松)を植えたのは誰かを明らかにすることでした。
それを探るために運動公園の歴史をもう少し遡ってみると、三つの可能性が浮かび上がってきました。可能性がある関係者は旧陸軍、進駐軍(米軍)、大分市長でした。
陸軍、進駐軍、それとも大分市長?
このブログ「大分『志手』散歩」の「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)でも書きましたが、駄原総合運動公園は昔、陸軍の練兵場でした。
大分県立大分西高校の敷地も練兵場跡で、大分大学付属小・中学校のところには兵舎があり、大分県立図書館のところは陸軍の病院でした。
右は1921(大正10)年に発行された大分市の地図です。兵舎の南側にあるのが練兵場と射撃場。射撃場の隣りには当時の志手の集落があります。
ここにあったのは陸軍歩兵第七十二連隊(大分連隊)です。1907(明治40)年に設置が決まり、翌年に実際に兵舎ができて、将兵の駐屯が始まったそうです。
1945(昭和20年)夏の太平洋戦争終結とともに日本の軍隊は解体されることになります。そして、やってきたのが進駐軍でした。
米軍進駐については「大分『志手』散歩」の「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験➃」(2023年9月4日公開)で紹介しています。
進駐軍がラクウショウを植えたのでしょうか。米国南部に広く分布しているというのですから、この木で故郷を思い出すという将兵もいたかもしれません。それで植えたという可能性もなくはなさそうです。
米軍撮影の航空写真に木立見えず
その前に旧陸軍が植えた可能性について検討しましょう。国土地理院のホームページで検索すると、終戦後に米軍が撮影した大分市の航空写真を何枚も見ることができます。
そのうちの1枚で、米軍が1948(昭和23)年1月13日に撮影したという写真をダウンロードしてみました。
米軍は1945(昭和20)年10月から翌46(昭和21)年12月まで旧大分連隊兵舎にいて、その後別府市に移ります。
大分にいた1年2カ月の間に練兵場跡の一角に野球場を整備し、そこで野球を楽しんでいたようです。
1951(昭和26)年1月26日付の大分市報に「ラグビー 競技場の竣工近し」という見出しの記事があります。
記事は、市営陸上競技場南側7,000坪(23,100平方メートル)に整備中のラグビー場が2月下旬には使えるようになることを告知するものです。
市報のこの記事の後半に、ラグビー場建設の付帯工事として「旧占領軍野球場」の補修をして市民に使えるようにする、とのお知らせが付け加えてありました。
練兵場跡に野球場を造った進駐軍が、そこに母国の木を植えても不思議ではないとも思えるのですが、それを証明する資料を今のところ見つけていません。個人的には進駐軍(米軍)がラクウショウを植えたという説が一番面白いのですが、どうでしょう。
樹木の寄付を募った「公園市長」
1947(昭和22)年から1963(昭和38)年まで4期16年にわたって大分市長を務めた上田保氏(故人)は「アイデア市長」「公園市長」の異名がありました。
高崎山の野生サルを餌付けし、観光名所としたことで「アイデア市長」と呼ばれることになります(「大分『志手』散歩の「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵細る客足」2023年4月24日公開などを参照ください)。
どれも特徴を持った公園でしたが、「一種一木」でさまざまな樹を集めたジャングル公園はかなりユニークなものといっていいのではないかと思います。
ちなみに、ジャングル公園は「大分『志手』散歩」の「大分まち歩き➃住居表示番外編➃都町Ⅲ」(2023年4月3日公開)で、遊歩公園については「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1」(2023年6月9日公開)で紹介しています。
この資料によると、ジャングル公園には「北は北海道、南は鹿児島の涯からも移植した600余種の樹木」が揃っているとのことでした。
さらに、各々の木にはその木にちなんだ和歌や俳句などを引用した標識が立てられてあると書いてあります。ただ、漠然と木々を見て歩くだけでなく、公園を巡ると勉強にもなります、というわけです。
それによると、「一昨年以来上田市長が鋭意蒐集に当たり、高崎、由布、久住祖母、佐伯の城山等々の珍木探しに駆け回り(略)今日まで約400種の樹木が植えられ」などとこれまでの経過が書かれています。
1951年の市報の「一昨年」は1949(昭和24)年になります。この頃大分連隊の練兵場跡では陸上競技場の整備が行われていました。
競技場も公園も 一斉に進む戦後復興
大分市営陸上競技場の完成を知らせる大分市報は1950(昭和25)年4月14日付で発行されています。
大分市では陸上競技場の完成を記念して「市民大運動会」を開くことにしたので、市民のみなさんはふるって参加してほしい、との呼びかけでした。
このあと、新装なった陸上競技場では「全日本地域対抗陸上競技大会」が開かれます。この大会にはヘルシンキ・オリンピックを目指す全日本のベストメンバー200人が参集する、と1950(昭和25)年の5月19日の大分市報にありました。大会はさぞかし盛り上がったのではないでしょうか。
ちなみに陸上競技場建設は1948(昭和23)年7月に失業救済事業として始まった、と上田市長が述べています(1950年5月26日付大分市報)。
敗戦から2年、3年が経過し、公園や競技場、道路や港湾施設など戦後の復興事業が一斉に動き出した、そんな感じがします。この時期の公共事業は失業者を一時的に救済する意味でも重要だったでしょう。
寄付された樹木の中にラクウショウがあり、それがジャングル公園ではなく、当時の大分市陸上競技場(現駄原総合運動公園)に植えられた。
これも考えられることですが、裏付ける資料を見付けられていません。単なる当て推量です。
ただ、戦後の間もないころにラクウショウが植えられたことは間違いないと思います。それらしき木立が写った国土地理院の写真があります。
1961(昭和36)年4月25日の大分市です。写真に赤い丸を入れたのはこのブログの筆者です。分かるでしょうか、拡大していくと陸上競技場の横に木立のようなものが見えます。これはラクウショウの林ではないでしょうか。
となると、やはり戦後まもない時期に植えられたと考えてよいでしょう。植えた人は「本命」が上田保市長、「大穴」で進駐軍(米軍)といったところでしょうか。
ぼちぼちと資料探しを続けて、確実なところを探り当てられたら、またご報告したいと思います。
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